solivachi2

konoreのブログ、話がよく飛ぶ

LOVING YOU

 血の気が引くほど悲しかった日も、ドブネズミだけが同情した日も、いまは昔のよた話。時間と空間、瞬間LUCKが挿入された。突如開かれるハッピーフィールド。カードキーの滑らかさをもって。▂▅▇█▓君が目の前に現れた▓█▇▅▂。はじけるように降り出すLOVE。ハートはデカいスーパーボール。このときめきを秒でフィルムに焼き付けたい。ステータス異常をセーブしたい。「鏡のなかのあなたは誰?」「不織布マスクバラクラバ)からの視界はどこ?」 幸せでしょ? ってティザ合成する、レイヤーもいまはひとつもない。わが幸福は形無しなり。財宝もまた去来せず。すべてがいまここにある。

よいお年を

 _今年の初日の出をおぼえていますか。わたしが生まれ故郷で見たそれは少しく不穏でした。低い雲と海の間に浮かぶ島、生えている灯台、液体のようにこみ上げるサン、その光景はなにかを暗示しているみたいで、暗い1月の胸が騒いだものです

_『いまにも解き明かされそうな相、全然わからないのにヒントには確信がある』そういうものを面白く思うし、まじめに追求していきたく思います。転がっていくのがすごく愉快で、書くことがたのしく、歌うことがたのしく、ギターを大きな音で鳴らせるのがうれしい。本来抵抗しなくていいことにあがくわたしも、およそ無抵抗になるときを見つけました

_神様のように性格をうばう 感覚。心はヴァーチャルに作れそうな世紀、感覚は肉体がほしい。体は他人に求めなくても今このコレでなんとかできそう、果てなく言葉にならぬ覚えを生きることで

_不穏不敵な気持ちを支えてくれたみなさまにほんとうに感謝しています。引き続きロールしていきますのでよろしくお願いいたします。どうぞ良いお年を、来光をお迎えください。

 

やさしい逸楽主義

●溢れる好きのパワー

●激情家

●好きだ、だれが? なにが?

●好きが叶える、丸々ゆたかな音と景色

●この世界にいたい理由

論議不適格な初期情動

●体を飛び出し俯瞰が起きる

●神の視点。鳥の目線

●その点線を圧着する。(激情)

●ご機嫌でいる

●逸楽主義

●コントロールでありシンクロ

●想像力をだれにもらったかはたいせつ、だけど重要ではない

●はかなさ

●全てあげる滞りのないたいせつ

●思い出の気持ちを誰かの思い出にするパワー

●体を心の一部として見境なく運用する

●体と心の不気味の谷

●想像で飛び越えてきたヒトの実跡

●膨張と収縮

●愛したい気持ちは留まらずいずれ繋がる、なにに?

●この体は私が乗っ取る。

●POWER UNDER CONSTRUCTION

日本画を好きになった理由

 自然災害のような感情。それはコミュニケーション不通なもので、他者に対する蹂躙である。避難を促してしかるべき態度だ。「アート」や「作品」というエクスキューズがあってはじめて人は立ち止まることができる。

 竜巻を間近に撮影する人たちはしばしばクレイジーと呼ばれる。けれど、写真として紙に焼き付けられたその気象に対して、容易に人は心象をうかべられる。感動できる。焼き付けられた景色の再現そのものに心を震わす。実際の景色をキャッチアップしようとすれば、自分にはとても無理だと云うのに。撮影者と閲覧者の差異はなに? それはメッセージの発信源との距離と切実さではないか。

 最近ハマった日本画について話したい。わたしが特に好む作品は、明治から大正、昭和にかけて、いわゆる西欧化、近代化が推し進められた時代の美術品だ。それらを好きだと語ると、幾度となく「どこが好きなの?」「なぜ好きなの?」と尋ねられたので少し考えてみた。

 何度も語るうちにまず気がついたのは、作品が健気で、うぶであること。当事者であるところが好ましいということだ(そういうわれの好み方に辟易するけど)。

 どこが健気でうぶかというと、いままでの日本画にはなかったであろう写実的な立体感、ワイルドで肉感的な曲線、極端にアシンメトリーな構図などなど、それをドが1000個付くしろうとにもわかるように取り入れているところである。

 わかるひとがわかればいいという記号的な取り入れ方ではなく、さっきの竜巻のように、一目見て「あ、この様子だとこのあと確実に一雨くるな」「濡れるな」とわかる描き方なのだ。その「僕はもうずぶ濡れですし、雨はもう降ってますよ」という在り方にとても感動する。近代化という現象に突き動かされて描くという、蹂躙されながらも人に声をかけられる優美さを失わないところに胸を打たれる。

 その必死さを一言でいえば愛だ。わたしは速水御舟の作品をみて、愛されている感じた。作品の在り方が贈与なのだ。こんなだけれど、愛してくれますか、と慎ましく立つ絵。とんでもない。こちらこそ。近代をはるかに飛ばした現代に、税の課されない贈与がどれだけあるのか。

 表現が現象に肉薄するのではなく、もっと危ないことができて、現象そのものを焼き付ける、焚きしめる、「なる」ことが伝えるということなんだろう。

 自然災害的感情は、自己に対する蹂躙でもある。わたしはそれに苦しめられてる人を見るのが嫌だ。わがままかもしれないけれど、泣き顔を見るのは嫌なんだ。いつも笑っていてほしい。あなたが笑うかどうかについて、わたしは無限に無力だけれど、あなたが無理だと云うくらいにはクレイジーでありたい。

 わたしたちはずぶ濡れだし、しばらく雨中にあるだろうけれど、互いに観測することはできる。ならば大した言葉がなくても傘を差し出せば意味は通じる。そういうことをしたい。先を歩く背を追い続けて、矛盾でバラバラになりかけながら、そんなことをずっと考えている。

最近の話な。頭の中な。

 ごきげんよう。先日のMUSEMENTレコ発企画はどうもありがとうございました。リハーサル含め本番まで、まさに輝かしき日々でした。

 ご存知の通り作曲者・矢部浩志(校長)先生が主役という稀有な一日の中で、歌い手ってなにかなとか、自分の存在ってなんなのかなとか色々なことを考えました。全てはステージの上で、明け方の一番風のように感じ取れた気がします。言葉にするのは簡単ではないし、あなたから与えられるものが言葉でやってくるとは限らないよね。

 言葉だけではコミュニケーションにはならない、というのが最近一番グッときた文言なのですが、これはバリアフリー研究者の福島智さんがおっしゃっていて、ご自身が後天的に視力と聴力を失ってから、コミュニケーションの方法を模索するなかで気付いたことなんだって。

 人と対面した時に、言葉だけ点字訳されても、同じ世界に参加している感じがしない。その場の雰囲気や、身振り手振りまで伝わって初めてコミュニケーションになる。それまでは大きな壺のなかにいて、たまに誰かが蓋を開けて言葉を降らせるけれど、やがてその人は去ってまた蓋は閉じられてしまう、そんな風に感じていたと。

 私がなぜ歌をやっているかというと、大きくいえばやはり疎通のためなので、息せき切っていつもヒントを探してる。歌もただ歌ってるだけじゃなんにも伝わらなくて、その感じは自分に一番返ってくる。言葉だけが五月雨のように砕けていく。肉声なのに体感がない。

 コミュニケーションは、その場にいる人、自分の気持ち、伝えたいこと、いくつもの光源をばしゅばしゅ反射させて成立するものなのかなと思う。言葉だけじゃブースト足りぬゎい。だから歌になるんでしょう。私は花のような美人、星のようなディーバではないけれど、その全てをうつす鏡になりたいな。

 そうやってめぐりめぐった物が、手を繋いだようになるのが永遠なんですかね。アハハ。ライブが終わった後、あなたに「よくやった」って言ってもらえてうれしかったです。歌姫様たちと話したことは、ないしょです。校長先生、いつもありがとうございます。これからも頑張るのだ。