solivachi2

konoreのブログ、話がよく飛ぶ

わたしの_あなたの自由

  愛がいらないわけじゃない。制限がいらない。傲慢に試みたくない。暴力的なひとつの命、みたいなライブは誰だって好きか嫌いか「知ってる」。ライブな愛を目の当たりに、その表現を舞台下から覆すなんてできやしない。受け取るか突っぱねるか。愛には暴力が、暗殺が憑依する。生存が憑依する。愛はわたしらになんでもやらせ、その名のもとに神が生まれる。子どもも生まれる。自由だけが今見当たらない。心にだけ在る果てない郷愁。 吹かれても飛ばない、ただ忘れるか埋もれるかの自由。それを失いたくない。奪いたくない。表現はディグ。郷愁はアンセム。特別ではなく、奇跡的に自由を持つ。この種に生まれて。この体に生まれて。気づいたことをすぐに忘れる。だけど幾度も気づく。夜毎に命が換装される。光の塊と、偶然目に差す光線。どちらの訪れにも気づきたい。今どこにいる? 死ぬまでに会いたいよ。

 

LOVING YOU

 血の気が引くほど悲しかった日も、ドブネズミだけが同情した日も、いまは昔のよた話。時間と空間、瞬間LUCKが挿入された。突如開かれるハッピーフィールド。カードキーの滑らかさをもって。▂▅▇█▓君が目の前に現れた▓█▇▅▂。はじけるように降り出すLOVE。ハートはデカいスーパーボール。このときめきを秒でフィルムに焼き付けたい。ステータス異常をセーブしたい。「鏡のなかのあなたは誰?」「不織布マスクバラクラバ)からの視界はどこ?」 幸せでしょ? ってティザ合成する、レイヤーもいまはひとつもない。わが幸福は形無しなり。財宝もまた去来せず。すべてがいまここにある。

よいお年を

 _今年の初日の出をおぼえていますか。わたしが生まれ故郷で見たそれは少しく不穏でした。低い雲と海の間に浮かぶ島、生えている灯台、液体のようにこみ上げるサン、その光景はなにかを暗示しているみたいで、暗い1月の胸が騒いだものです

_『いまにも解き明かされそうな相、全然わからないのにヒントには確信がある』そういうものを面白く思うし、まじめに追求していきたく思います。転がっていくのがすごく愉快で、書くことがたのしく、歌うことがたのしく、ギターを大きな音で鳴らせるのがうれしい。本来抵抗しなくていいことにあがくわたしも、およそ無抵抗になるときを見つけました

_神様のように性格をうばう 感覚。心はヴァーチャルに作れそうな世紀、感覚は肉体がほしい。体は他人に求めなくても今このコレでなんとかできそう、果てなく言葉にならぬ覚えを生きることで

_不穏不敵な気持ちを支えてくれたみなさまにほんとうに感謝しています。引き続きロールしていきますのでよろしくお願いいたします。どうぞ良いお年を、来光をお迎えください。

 

やさしい逸楽主義

●溢れる好きのパワー

●激情家

●好きだ、だれが? なにが?

●好きが叶える、丸々ゆたかな音と景色

●この世界にいたい理由

論議不適格な初期情動

●体を飛び出し俯瞰が起きる

●神の視点。鳥の目線

●その点線を圧着する。(激情)

●ご機嫌でいる

●逸楽主義

●コントロールでありシンクロ

●想像力をだれにもらったかはたいせつ、だけど重要ではない

●はかなさ

●全てあげる滞りのないたいせつ

●思い出の気持ちを誰かの思い出にするパワー

●体を心の一部として見境なく運用する

●体と心の不気味の谷

●想像で飛び越えてきたヒトの実跡

●膨張と収縮

●愛したい気持ちは留まらずいずれ繋がる、なにに?

●この体は私が乗っ取る。

●POWER UNDER CONSTRUCTION

日本画を好きになった理由

 自然災害のような感情。それはコミュニケーション不通なもので、他者に対する蹂躙である。避難を促してしかるべき態度だ。「アート」や「作品」というエクスキューズがあってはじめて人は立ち止まることができる。

 竜巻を間近に撮影する人たちはしばしばクレイジーと呼ばれる。けれど、写真として紙に焼き付けられたその気象に対してならば、人は容易に心象をうかべられる。実際の景色をキャッチアップしようとすれば「自分には無理だ」と云うのに。撮影者と閲覧者の差異はなんだろう。それは、メッセージの発信源との距離ではないか。

 最近ハマった日本画について話したい。わたしの好きな作品は、明治から大正、昭和にかけて、いわゆる西欧化、近代化が推し進められた時代の美術品だ。それらを好きだと語ると、かならず「どこが好きなの?」「なぜ好きなの?」と尋ねられるので、あらためて考えてみた。

 何度も語るうちにまず気がついたのは、作品が、健気といえるほどに当事者であるということ。

 なにが健気かというと、いままでの日本画にはなかったであろう写実的な立体感、ワイルドで肉感的な曲線、極端にアシンメトリーな構図などなど、それをどが付くしろうとにもわかるように取り入れているところだ。

 わかるひとがわかればいいという記号的な取り入れ方ではなく、まるで竜巻のように、一目見て「あ、この様子だとこのあと確実に嵐がくるな」「濡れるな」とわかる描き方なのだ。

   その「僕はもうずぶ濡れですし、雨はもう降ってますよ」という在り方にとても感動する。近代化という現象に突き動かされて描くという、蹂躙されても人に声をかけられる優美さを失わぬところに胸を打たれる。

 その必死さはだれかへの愛のように思う。わたしは速水御舟の作品をみて、自分が愛されているように思った。作品の在り方が贈与そのもののように。こんな自分を受け取ってもらえるだろうか、愛してもらえるだろうか、と慎ましく立っている。とんでもないことだ。人間世界に、税の課されぬ贈与がどれだけあるのだろう。

 表現が現象に肉薄するのではなく、もっと危ないことができて、現象そのものを焼き付ける、焚きしめる、「なりきり、切り離す」ことが伝えるということなんだろう。

 災害的な感情は、自己に対する蹂躙でもある。わたしはそれに苦しめられてる人を見るのが嫌だ。わがままかもしれないが、泣き顔を見るのは嫌だ。あなたが笑うかどうかについて、わたしは無限に無力だけれど。

 わたしたちはずぶ濡れだし、しばらく雨中にあるだろうけれど、互いに観測することはできる。ならば大した言葉がなくても傘を差し出せば意味は通じる。そういう表現を通したい。矛盾でバラバラになりかけながら、そんなことを考えている。