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solivachi2

konoreのブログ、話がよく飛ぶ

ゆるす - written on Dec 21, 2016

 毎晩ダイスキ、、と思いながら毛布をかぶって寝入ります。まじ、誰なのかわかりません。色んなものにですかね。わかりません。昼間は出来るだけゆるして、、と思いながら生きてますけど、これはわかった気になって書きます。許すって、そんな言葉がある時点で、既に結果が出ているものなんだと。

 私は言葉がどう使われているのかに興味があって、それを遠因に歌詞を書いたりしている。歌詞っていうのは願いや祈りで、現状叶っていないことが書かれていると思っているよ。偉大なる例外は山ほどあるけど、側にいてっていないからだし、どこも行かないでってすぐ行っちゃうからだし、いつの時代も愛らしくはびこるのはそんな歌。

 言葉と、状態は大概断絶されている。その距離をジャンプする機能として、肉声がつかわれる。

 それと同じように、「許す」って言葉は祈りに似ているよね。使われるのは「許したい」とき。それは事実、「許さない」って状態をもとに放たれる。放たれるけど永続的には飛んでいかない。環境には重力と軋轢がある。

 既に許されていない。

 それでも願っているのなら、遠くからくる許しの判をもらえるように頑張らなくっちゃ。それは猛進ではなく手品。信頼はいつもあざやかなんだ。また、許すことは受け入れることじゃなく、踏み越えられたラインに少し遊びをもたせること。まるで庭みたいだね。

 だから許せなくて苦しいときは許す。いや、許せるかああああっ。というところを、行き来しても大丈夫。遊びは自分で設定できる。針のむしろから下りても、変わらず自然でいられる。

 基本愛してるから、許せないって気がおさまらないんだろう。気持ちは繋がってる。でも、目の前に在る庭を広くできたらな。花が健気に咲けばな。開かずの扉もまあ良いものに見えるでしょう。高望みは三日坊主に化けるから、藪を分け分け、アプローチ作りをやっていこうね。

アレシンスキーを見てきた。

        https://www.instagram.com/p/BNq69MaFGw9/

滑り込みシリーズ最終日はアレシンスキー、こういう絵になんで親しみをおぼえるのかと思ってましたが本人監督のドキュメンタリー「日本の書」を見てひらめきました。まさに表意文字的で、一本の線に一本の線以上のあれが込められてるからなのですね。それも喜びのために。ある嗚呼。昨日と逆の地平に来たわあ。今夜もブログ書こうと思います。でも寒すぎてブンカムラから出られない、、、、、、

 

 昨日ダリに関連して、表音文字(英語)と表意文字(日本語)についてふぁっと触れた影響か、こういう見方になりました。コピーにはおとろえぬ情熱とあるけど、情熱というより、たぶん線を引いた瞬間に一回行為が完結しちゃうから辞められないんだろうなって思った。その連続性に共感しました。

 日本の書家に影響されたとのことで、会場内でアレシンスキー自身が監督した「日本の書」というドキュメンタリーが放映されてましたがこれが良かったです。

 映像自体、小津安二郎(だいすき)的な固定カットを多様するのどか〜な切り取り方で、50年代の日本の町の看板やのぼりの筆文字をいっぱい拾ってました。かなりかわいい。のに、オリエンタルな感じにしようとしたのかだいぶ奇っ怪なBGMがつけられていて、そのギャップにはちょっと笑ってしまいました。

 他には小学生の習字の授業シーンがあったんですけど、先生が教壇にたって、空中に手でとめはねを書くわけですね。子どもたちも一斉に先生の動きと同期する。そういえばそんなのあったなあ。この運動が、改めて見るととても描画的で、これが「静」とか「朝」とか一字の意味を描くプロセスであるっていうのは確かに衝撃的だと思いました。決して装飾のためではないのがカリグラフィーとは違うところ。

 あとは当時の書家として森田子龍、篠田桃紅、江口草玄、森田竹華が出てきて作品を書いたりしていて、誰一人知らない私は江口草弦と篠田桃紅にかんぺきにノックアウトされました。かっこいいぃぃぃぃぃい。子どものころは書道の時間が嫌でしょうがなかったし、今でも自分の肉筆に何かを託すことはできないけど、この出会いで少し変わるかもしれません。ハッピィな予感です。

 総じてある時期以降のアレシンスキーの筆使いには、書以上であろうという熱意を感じました。抗うぞっていう気概にも思えた。それがよかったなあ。ぜんぜん違うかもしれないけど。なんか長くなりましたね。楽しかったです。

ダリを見てきた。

     https://www.instagram.com/p/BNoTuNdl70b/

ダリ展行ってきました。途中、マジでもう無理だと思ったけど気合の2周。。終わってみたら後頭部めちゃじんじんする。でもして良かった。いろんなことを思ったけど、やっぱり見えてるものを見なかったことにするのはできないんだなと。だから今でもたくさんの人が凝視するのだと思いました。

 

翻訳されたダリの作品タイトルを読んで思ったこと。

日本語だとどうしても焦点がぼけた。語順のシステム上しょうがない。

わかんないなりに英語で読んだら、飛躍の道がはっきり案内されたので

めずらしく一所懸命に原題を読みました。

ダリは叔父が書店をやってたらしいよ。示唆的ですね。

でも彼にとって結局英語は音でしかなかったんでしょう。

脳にひっかかってる「アレ」が「見えてる」から「描くっきゃない」と。

しかしこれやべーよなあ、って感じながらも無かったことにできないのが

Paranoiac Criticなのかなって思った。

宮崎駿崖の上のポニョのイメージボード作りの段で

「こんなのやばいよなあ」ってずっと言いながら描いてたよ。

あー! そんなのぐっとくる。

速水御舟を見てきた。

        https://www.instagram.com/p/BNlvM8-FNe1/

本当に本当に間に合ってよかった、、、。≪紅梅・白梅≫の月に心を奪われていたのに、紅梅になんとなく接近したら、枝の一部にうっすらと緑のきらめきが刷かれていました。なんて美しい苔。あっという間に虜になりました。

  

どれだけ苛烈な感情の中にいても、愛したいって気持ちはなくならない。

むしろその気持ちが行き場をなくすからどぶどぶになる。

私の中に愛はあるのに、どこに向けたら何に叫べばいいのかわからないときが苦しい。

だからきれいなものを見るとすごく幸せだ。

野蛮なまでに心が「好き」でいっぱいになる。

それなのに、きれいなものは、どうぞ愛してと慎ましやかに立っている。

私はそれを見て、自分の存在を許されてる、愛されてると思う。

泣きそうになっちゃう。

そんな風に愉しんでいます。 

  

ferocity - written on Nov 19, 2016

 「お前がいると迷惑。お前は豚だ。盗人だ」

 そう言われるのがかなしくて、私は優しくなろうとした。

 きたなかった。9歳から何も変わってこなかった。そんな優しさは誰もいらないとわかっていながら長らえた。痛い目をみて漸く少しかしこまる。遅い。そんなに鞭が必要か。

 「お前さえいなければ・・・」 言われたときに消えてたらと綴れる手。現実のいま覚悟をしろよ。消えろと言われて、このあとどうする?

 自己肯定とかよく言ったけどもう遅い。異臭パない。肯定できるほど誰が輪郭に寄れるのか。救いの変化は速度を増して、みんな自分を撮り捨てる。啓発的な気分で「自分を否定しちゃダメ」、これじゃあ遅刻なんだよ。

 私を否定する私にGOを出そう。よろしい。通りなさい。 

(あなたはこれからも憎むでしょう。好きにしなさい。)

 それが肯定と違うんかいとほざかれても一瞥するだけ。全然肯定してないし許してないけど行かないと。このまま澱んだら見合わない。美しいものに与りたい。美は否定するはずがないよ、私のものじゃないから。美意識は遠くの誰かが渡してくれたもの。唯一平伏している。

 17歳で「愛してるのに殴るんだ」と泣いたとき、「愛してるから殴るんだよ」と言ってくれたのを一生忘れない。遅い。苛烈な感情に燃やされながら息をする。

cavum oris

 今別な文章を書いてるんだけどあまりに個人的な書き方でアップをためらうのでどうでもいいことを書こうね。

 最近、口のことをよく考える。顔のパーツのなかで、私は口というのにいつも引っかかる。なんだか特別な執着がある。

 たとえばこの人の笑顔は蠱惑的だな、と思うときにはだいたい口に魅力を感じる。反対に、目をそらしたくなるのは知らない人がべーっと舌をむき出しにしてるときだ。なかなかの嫌悪感。

 子供の頃も、激しくしかりつけられている時、いつも鼻と口ばかり見てた。そこだけ見ていると、人間ではなくなにか別の生き物が激昂してるように見えるから。

 自分の口は嫌い。いつも何かいいたげでいわないみたいな感じ。うまくコントロールできない。写真に写るとそういうのを見なきゃいけないからやだ。

 物を食べたり喋ったりする器官に目より鼻より執心するのは、我ながら直接的だなあと思う。

 そんなのも、もっと巨大な魅力の前にはぶっ飛ばされたりしちゃうけど。

roseoserosreoeros

ばらにはよき思い出があるのでばら園にでも行きたい私です。

ブログタイトルを英語表記にしました。漢字で書くと反罰です。反り鉢でもいいです。

器に興味が出てきたので基本のきを勉強しています。

勉強してもすぐに忘れてしまいます。

固有名詞以上に重要なものもこの世にあります。

重みのあるよき思い出に要となる悪しき思い出。

最後にはすべて忘れて好きだけを感じていたいです。

必ず阿呆のようになるんでしょうね。

それでもしばらくは勉強の日々です。