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konoreのブログ、話がよく飛ぶ

日本画を好きになった理由

 自然災害のような感情。それはコミュニケーション不通なもので、他者に対する蹂躙である。避難を促してしかるべき態度だ。「アート」や「作品」というエクスキューズがあってはじめて人は立ち止まることができる。

 竜巻を間近に撮影する人たちはしばしばクレイジーと呼ばれる。けれど、写真として紙に焼き付けられたその気象に対して、容易に人は心象をうかべられる。感動できる。焼き付けられた景色の再現そのものに心を震わす。実際の景色をキャッチアップしようとすれば、自分にはとても無理だと思うのに。撮影者と閲覧者の差異はなに? それはメッセージの発信源との距離と切実さではないか。

 私が最近はまっている日本画の作品は、明治から大正、昭和にかけて、いわゆる西欧化、近代化が推し進められた時代の美術品だ。それらを好きだと語ると、幾度となく「どこが好きなの?」「なぜ好きなの?」と尋ねられた。

 何度も語るうちにまず気がついたのは、作品が健気であること。うぶであること。当事者であるところが好ましいということだ(そういうわれの好み方はちょっと辟易するけど)。

 どこが健気でうぶかというと、いままでの日本画にはなかったであろう写実的な立体感、ワイルドで肉感的な曲線、極端にアシンメトリーな構図などなど、それを私のような弩が1000個付くしろうとさんにもわかるように取り入れているところである。

 わかるひとがわかればいいという記号的な取り入れ方ではなく、さっきの竜巻のように、一目見て「あ、この様子だとこのあと確実に一雨くるな」「濡れるな」とわかる描き方なのだ。私はその「僕はもうずぶ濡れですし、雨はもう降ってますよ」という在り方に感動する。近代化という現象に突き動かされて描くという、蹂躙されながらも人に声をかけられる優美さを失わないところに胸を打たれる。

 その必死さを一言で呼称するなら愛だ。私は速水御舟の作品をみて、自分は愛されている感じた。作品の在り方が贈与だった。こんなだけれど、愛してくれますか、と慎ましく立つ絵。とんでもない。こちらこそ。近代をはるかに飛ばした現代に、税の課されない贈与がどれだけあるのか。

 表現が現象に肉薄するのではなく、もっと危ないことができて、現象そのものを焼き付ける、焚きしめる、「なる」ことが伝えるということなんだろう。

 自然災害的感情は、自己に対する蹂躙でもある。私はそれに苦しめられてる人を見るのが嫌だ。わがままかもしれないけれど、泣き顔を見るのは嫌なんだ。いつも笑っていてほしい。あなたが笑うかどうかについて、私は無限に無力だけれど、あなたが無理だと思うくらいにはクレイジーでありたい。

 わたしたちはずぶ濡れだし、しばらく雨中にあるだろうけれど、互いに観測することはできる。だったら大した言葉がなくても傘を差し出せば意味は通じる。私はそういうことをしたい。先を歩く背を追い続けて、矛盾でバラバラになりかけながら、そんなことをずっと考えてるよ。